眠れない羊の戯言

あぁ、あの時の羊はこんな考え方だったんだなっていつか振り返る日がきたら、それはとても心嬉しいことでしょう。

価値と文化の恣意性について

私たちはいろんな価値観の上に立って生きている。
 
何が善で何が悪で、何が重要で、何かに価値を感じて日々生活をしている。
 
価値観の上に立って生きていることは想像しづらいかもしれない。そんな場合に言い換えるとしたら「人間は文化の中で生きている」とすると少し理解しやすいかもしれない。
 
 
文化とはある意味何を重んじるか、何が正しいか、何を好むのかなどの人々の属性から生まれた慣習である。だから文化とは価値観なのだとおもう。
 
国際結婚とかで文化の違いとか価値観の違いとかよく聞くのは文化と価値観が表裏一体のものであるからだと思う。
 
 
 
 私たちはいろんな価値観の上に立って生きている。
 
けれど、この世の中に存在する価値観は全て恣意的なものだとおもう。
 
言語学を知っている人はソシュール記号論を思い浮かべてもらうとわかりやすいかもしれない。記号論とは、言語とは意味するもの(音声)と意味されるもの(概念)がセットで作り上げるもので、どんな音でどんな内容を表すかは恣意的である(=必然的じゃない)。
 
 
文化とは、本質的に記号論的なものであって恣意的だと思う。
 
 
 
だから文化や価値観は誰かが勝手に意味をもたせたものであり、必然じゃない。
 
例えば、「1月1日は正月だから初詣に行く」なんて文化も人間が勝手に決めただけであり、そこに必然性があるわけじゃない。必然性がないものは簡単に変わってしまうかもしれないものだとおもう。
 
 
そう思うと、世の中で起こる様々なことや自分の行動ひとつも何の意味も価値もないひとつの記号のようなものだと感じる。
 
世の中で起こる事象も自分が起こす行動も、何か必然的な意味や価値を持っているものではない。
 
 
 
別に生きることがプラスでもなければ死ぬことがマイナスなわけでもない。
 
高学歴で高収入なのが善でもなければ、性的マイノリティに生まれたことが悪なわけでもない。
 
美しいと言われる容姿が善でもなければ、醜い容姿が悪でもない。
 
白色人種が優れているわけでもなければ、有色人種が劣っているわけでもない。
 
世の中にあるものすべてプラスでもマイナスでもない。
 
 
世の中に必然的な価値を持つものなんてない。絶対的な価値もなければ、永遠に続く価値もない。価値観なんて恣意的ですごく脆いものだ。
 

正義や価値があるものだと仮面を被っているものに自分が苦しめられる必要はない。

 

そう思えば、今自分が世の中にある価値観に悩まされている人は少し楽になれるかもしれない。世の中にある価値観から自分を解放させることができるかもしれない。

 

 

 

 

「全てのことは恣意的で揺るぎない価値を持っているものなんて何もない」と考えることはある種の救いであると思う。

その反面、何かに価値を見出してそれを拠り所にして生きて行くことは難しくなるかもしれない。

 

 


 世の中の何にも価値を見出す必要はない。生きることが正しいわけでもないし、死ぬことが悪いことでもない。

 

そう思うと、この世の中にしがみついて苦しいまま生きて行く必要なんてない気がしてくる。

 

 

自分のキャパを超えて、どうしようもない悲しみに襲われた時に人生という長い旅の電車を比較的簡単に「もう降りてしまおうか」と思ってしまうかもしれない。

 

 

そんな時に唯一自分を引き止めてくれるものが私の中にある「大好きなパパとママが悲しませたくないから、その2人よりは長生きしよう」っていう倫理観みたいなものだ。

 

 

けれど、パパもママも永遠に生きているわけじゃない。私が子供を産んだらこの子のために生きようって思えるかもしれないけど、すぐに子供が欲しいと今は思えないし。

 

 


結局、全てのことが恣意的な世の中で私が拠り所にして生きて行くのは「私が心からこの人が大切だと思えて、私のことを心から大切にしてくれる人」なのだと思う。

 

 

「本当に大切にし合える人を自分の周りに増やすこと」がこの生きにくい世の中を生きやすくする1つの方法だと私は思う。